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GUIDES to Creation

普通のなんでもない物を作るのがいちばん難しいんや

師の言葉である。やきものの仕事は大きく分けると二つ。加飾の仕事と瞬間芸になる。細かな象嵌や微細な絵付けや器体の表面を丹念に削り落とすなど時間の掛かる仕事と、瞬間的な轆轤の技や削りの土味などを見せる技術などで、私の仕事は後者に属する。切子と吹きガラスのようなもの。漆の仕事は前者。人形は最後の目を描くところ以外は前者といえるだろう。
日本の伝統工芸は、ほとんどが前者かな、とも思われる。しかし、やきものの産地の中で有田、九谷、薩摩などは前者であるが、信楽、丹波、伊賀、備前、萩、唐津、瀬戸、多治見などは後者であり、日本の焼き物の魅力の一つでもあるのかもしれない。昨今の陶産地でない都会での仕事には前者が多く、時代の流行となっているようにも感じられる。このことは、大層にいうと人の生き方にも通じるのかなとも思う。
私は京焼を販売する店で育ったせいか、最初にやきものの世界に入ったときは、細かな絵付けや、繊細な細工に憧れた。技術の極みのようなものに憧れ、そんな技術を身に着けたいと思った。それこそがこの世界のすべてと思っていた。

しかし、やきものの学校に行って二年目ぐらいから、それまで知らなかった他産地の仕事や、陶芸家の存在を知り、後者の仕事の魅力や、陶芸家たちの焼き物に込められた表現などを見て興奮し、身震いするような作品に出合うことがあった。決定的だったのは師の轆轤をはじめて見たときだ。それまで轆轤の名人と言われている職人さんたちの仕事場へは幾度となく勉強に行っていたが全く違うものだった。土が生き物のように見えた。轆轤を終えて切糸で切り板の上に置かれたまだ生の茶碗が、すでに完成していて、どこをとっても細工の必要がなく、柔らかく、温かく、力強く、風格に満ちていた。「なんだこれは。なんなんだ。技術?テクニック?」たった数十秒の間にに込められた見せ所の多い技に驚愕した。「目が点になる」、傍からから見ればそんな状態だったと思う。

やきものの学校に二年通い、大概のものは「作れる」自信があったのですぐに轆轤に土を添えて作ってみたが、いくら作ってもそうはならない。ただの器物で、綺麗に、薄く、端正にはできても何の感動も得られなかった。上手に仕上げをして、オリジナルではあるが万人受けするような綺麗な釉薬をかけ焼成しても、安っぽく見えて心震えるものは何もなかった。やきもの屋の子せがれに生まれたおかげか、店で良く売れるものは感覚的にはわかっていた。だから当初から何を作ってもよく売れたし、逆に売れるものしか作らなかった。
この技術の違い、はたまた人間の器の違いなのか、自分の力のなさに悩み苦しんだ。そんな私を見てかどうかは今となってはわからないが、師から言われた言葉がこれである。だからどうしろとは何もなく、その後も答えはなく、ただ一言だけ「それがいちばん難しいんや」と。

それから約40年たった今、思う。師も悩み苦しまれた時があったのだろうか?と。天才といわれた方でもそんなときがもしあったのなら、私のような凡才は常に意識を持って作りまくり、人としても磨き上げないと、あのような仕事には近づけないのだろうと思い、土に向かってきた。それが答えなのかもしれないが、私の目指す仕事はそこが終着点である。

初心忘ルベカラズ

世阿弥が『風姿花伝』で芸能の道を説いた戒めである。様々な解釈があり、一般的な純真な時の思いを忘れるなというのも良いのだが、私は、「若かりし頃の邪心や慢心や芸の未熟さへの戒め」と解釈している。
20代の初めにたまたま読んだ本の中にこのことが書いてあり、世阿弥について少し勉強した。

当時同級生が営む料理屋に様々な人が集まり、よく勉強会をしていた。和食、茶道、華道、能や歌舞伎、ワインや日本酒など。その中で、能楽の方から芸事の厳しさや精神論について教わったことがあった。
そこで「それぞれの初心」ということを知った。人生の節目節目にそれまでの自分自身を思い返して、邪心や野心はなかったか、慢心していなかったか、可能性のあった選択肢を間違っていなかったかを検証し、もしそうだったとしたら、その未熟な己を戒めて次へ進めという話だった。
芸の道は常にその精神でないと、知らず知らずのうちに緊張感がなくなり衰退していくということだった。
「枯れてきた」とは上手い表現だが、その内なるものが枯れてしまったり、若いのに枯れてみせたりするのではなく、常に自分を戒める事が余裕へと繋がるのだろうと思う。

巷の老害と呼ばれる方々はきっと自信をもって生きて来られたのであろう。反省と戒めとはちょと違うが、毎朝反省ばかりである。控えめな年寄りでいたい。

一升飲んでも酔ったふりができなあかんぞ

まだ高校生の頃、叔父から聞いた話である。法事の宴会で、商売人の取引の中での教訓だったのだが、真に受けてお酒が飲めるようになるや実践してきてしまった。体質的に無理な方や、お酒を飲むと自分がコントロールできない方、最初に嫌な思いをした方は仕方がないと思う。しかし、私はこの一言のおかげで、そのレベルまでいきたいと思ったのである。単純である。最初は体質的にもそんなに飲めたわけでもなく、何度も失敗を繰り返しながらも鍛えてきた。救急車で運ばれたことも一度や二度ではない。反省はしても学習しない。やきものの技術の修練と同じである。反復練習でしか身につかない技術である。その上に人間味を重ねていく。
酒場道。陶道。先ずは基本の習得。その先は厳しい道である。料理の味や、お酒の味はこれまた厳しい道がある。昭和な酒場でしか学べないことは多々あった。

そんな昭和な飲み方をしていた二十代のころ、若い陶芸家20人ほどを集めて師に高級フレンチでお昼をご馳走になったことがある。乾杯のビールの時に「猪飼」と呼ばれ立ち上がると、「お前はあちこちで酒ばっかり飲んでるらしいな」と言われた。そして続けて生ビールのグラスを片手に「わしはこのおかげで人生楽しかった。これが飲めへん奴らは人生半分損しとるな」と。免罪符をいただいた。

「教える」と「育てる」は違う

答えを示すか示さないかということかもしれない。
40年ほど前、覚悟を決めて弟子入りをお願いに上がった際、師から「君に教えることは何もない。お父さんが全て知っている。会社勤めの家で育った子には教えないといけないことがあるが君は違う。やきものを作ることは自分自身がいかに努力するかのみ。教えてできるなら修行はいらんやろ」と言われ、いきなり独立を勧められた。
父親と一晩考えた上でそうすることにした。前向きに受け止めた。それからは誰に教わることもなく、がむしゃらに作り続けた。今思うと、現在当たり前にしていることはもしかしたら、常識でないことをしているのかもしれない。オリジナルといえばそれまでだが、教わることがなかったお蔭でオリジナルが生まれたのかもしれない。小中高や塾や専門学校ではずっと教わってきたが、社会に出て先輩から仕事を教わったわけではない。

よく修行で「見て盗め」というがそのことを実感したのは、私がお弟子さんをとってからである。
私が教えてもらえなかったために苦労をした経験から、お弟子さんたちには手取り足取り教えた。指先のミリ単位の動きや、手首の返し、ヘラの角度の動き等々。でもできない。当たり前である。それですぐにできるなら修行はいらない。そしてやっとできるようになった時には私と同じテイストになってしまっていた。
「あれ?」と思ったときに、私らしいスタイルはなぜ生まれたのだろうと思った。
「教わってないから」だった。

幾度となく作品を見てもらいに師のお宅へ伺ったが、作品の評価は、いいか?悪いか?だけで、時には何の評価もなく梱包をほどいた瞬間の表情だけで判断しなければならないこともあった。形や釉薬のことなど具体的な改善の教えはなかった。こうすればもっと良くなるのにという答えはわかっておられたと思うが、それをお聞きすることはなかった。持ち帰ってから新たな苦悩の日々が始まり、また改良していった。

若い方に答えを言って上げるのは簡単だが、言わないで見守ることは大変なことである。
短期的に結果を出すために答えを欲するのはよくわかる。それを言ってあげると感謝もされるだろう。
しかし、教える教わるの関係は基本のところまで。その先は教わらないという姿勢も大切かなとも思う。
私を育ててくださった師や兄弟子達には感謝しかない。

紫の派手なトレーナー

中学生の時、とてもきれいと思い買ってきたトレーナーがあった。
5センチ四方の10種類ぐらいの紫色の布と白色の布とがランダムにパッチワークされたトレーナーだった。
規則性はないのだが白色の間合いが素敵で、紫の色合いも青紫のなかでの濃淡で構成されており、他のものよりかなり高価だったが買ってしまった。持ち帰って袖を通し、父と母に自慢げに見せると、期待に反してボロカスに言われた。紫の服は欲求不満の色だとか、品がないとか、そんな服を着て近所を歩くなとさえ言われた。美しいと思った自分の感性をけちょんけちょんに言われ悔しかった。お寺では紫は一番高貴な色だとか言ってたくせに、と思った。確かに派手ではあった。

しかし、そのトレーナーを着て祇園に住む祖母の家に行くと、叔母や芸妓さんたちも居て、会うなり皆から
派手なトレーナーを絶賛された。10種類ほどの青紫の色の一つ一つが「こうとな色(品がある?京ことば?)
やな」と。また白場のバランスが絶妙やなと。これは一点物で作らはった人の色のチョイスが良いが、高かったやろと。
着物を着馴れた人たちの評価に自信をもった。幼少のころから祖母の家に行くと、出入する人たちの着物の色や柄について評価する祖母や叔母の話をよく聞いていた。無意識のうちに学んでいたのかもしれない。
上品な色と下品な色。その境目は人それぞれ。私が一目惚れしたトレーナーの中に一つでも私の基準で下品な色が入っていたら買ってなかったかもしれない。

工業製品ではなく、一点物として作られたであろう誰かの作品を手に入れたことは、今に繋がっているのでは、と思う。それでも父からはそのトレーナーを着るたびに文句を言われ続けた。服に対して、父と私の美に対する境目は大きくずれていたのだろう。

白と黒の色の多さは祖母に教わった

トレーナー事件以来、色にものすごく興味をもった。その後、祖母から白と黒の色の多さのことを聞いた時にも驚いた。さすがに白と黒は一色と思っていたが全く違った。絵の具の白、画用紙の白しか知らなかったが、それ以来、街にあふれる白の色を注視するようになった。

白い車の塗料の裏に赤や青、茶色や緑の色が見えるようになった。赤い車の後ろにも黒や黄や茶など町に走る
車の色を勝手に判断してメーカーごとに分類して面白がっていた。そして二十歳前ごろには、工業的な色ではなく、日本の古来からある草木染の色のことを知り、分厚い辞典まで買ってしまった。
私の知っている色の分類ではなく、何色とも分類されない色があり、それぞれに日本の植物や動物、自然現象
などの名前があり更に興味を持った。このことは後にやきものの仕事をする際に大きな意味があったと思う。
ただ、父と私の判断の境目が違ったように、この世界には私なんかよりはるかに色を見分ける能力を持った方がおられ、私の境目もどうなのか気になるところである。

近所に住むイヤなオヤジ

幼少の頃、五条坂あたりでよく見かける、子どもながらに嫌な感じのするオヤジが二人いた。私が誰なのか知
ってか知らないか、いつもすれ違いざまにニタニタしながら一言何か言ってくる。それは思春期になっても同じだった。身なりもだらしなく、冬でも素足に草履ばき。どちらもふてぶてしい歩き方で、こんな大人にはなりたくないと思っていた。いつも道の真ん中を歩き、前から人が来ても絶対によけない人たちだった。父から道を歩くときは、端をこそこそ歩くのではなく真ん中を堂々と歩きなさいと言われていたが、この二人をみつけるとかなり前から端をこそこそ歩き、知らないふりをして通り過ぎようとしても、必ず「男は堂々と歩けよ」とか、「急ぎか」とか言ってくる。ほんとに嫌な奴等だった。

しかし、私がやきものの世界に入って、その二人が焼き物関係者であることが判明した。一人は有名な茶道具
屋の作家さんで、もう一人は老舗の陶器屋の番頭さんだった。私を誰の息子と知っての今までの態度だったのかと気づいた。それからは普通に挨拶もするし、話すことも時々あった。しかし口調は相変わらずで、嫌な感じはずっと同じだった。それから10年以上経ち、私もこの世界で評価されだしたころ、道の真ん中を歩いてきた一人に私もまっすぐ真ん中を歩いていくと、向こうが道を譲ってくれた。その際、いつもの嫌な一言が、「よう頑張ってるな。」と変わっていた。一瞬、勝ったと思ったが複雑な気持ちにもなった。
この二人は幼少の頃からずっと私のことを見ていたんだなと。嫌そうにしていたのも、苦笑いしていたのも、
道の端をこそこそと小走りしていたのも。近所の嫌なオヤジも大切な地域のつながりなんだとも思った。

その後、その一人の方から突然電話があり、体調が悪いことを知らされた。持病が悪化して先が厳しいとのこと。同じ持病が私にもあることを告げると、毎日のように電話があった。持病があったのに養生してきなかったことの経験を私がそうならないようにと、思いついたことを知らせていただいた。しばらくして電話も掛かってこなくなった。小さい頃から何十回、もしや百回以上言われ続け耳を背けていた嫌な一言だったが、最後のひと月余りの電話での一言はしっかりと聞かせていただいた。いつまでも感謝します。合掌。

壺作るのは上手になったけど、徳利の口は品がないな

20代後半の頃だったか、近くに住む割烹食器専門の問屋の大将から言われた一言である。
その方は地域の役などをやられていて幼少の頃からよく知っていた。私のグループ展か何かを見られての通りすがりの一言だった。
江戸時代に始まる初代の父が壺造りの職人だったことから私の家の屋号に「壺屋」とつくことや、師も壺の名人であり、公募展に出品するために当初から壺ばかり作っていた。おそらく同年代の仲間の中でも壺作りにかけていた時間は圧倒的に長かったと思う。壺の口作りには相当苦労したけど、食器である徳利の小径の口づくりにそれ程拘ってはいなかった。なめし皮で綺麗なアールにするだけだった。ましてやそんなに数も作っていなかった。

口に品がない? やきものに品や格、色気が必要であることは当初から気にしていたが、それは時間が経つにつ
れ結構ささってきた。たくさんの徳利を見に行った。確かに品のないものが多く存在するのは理解した。
しかし、上品な口とはなんぞやがわからない。名品とよばれるものや、有名な陶芸家、備前の徳利、京焼の最高のものなどをみても良いのは良い。しかし...。それ以来、徳利が作れなくなってしまった。20年ぐらいほとんど作っていなかった。最初はトラウマで作れなかったが、だんだん作ることすら考えなくなった。個展の時も冷酒ブームもあってか片口ばかり作っていた。しかし、最近やっと徳利を作り出した。壺は若い時から誰にも負けないぐらい数を作っていたため合格レベルの評価であるが、この仕事はいかに歳を重ね技術を身につけても作ったことのないアイテムについては初心者と同じである。

抹茶茶碗は若い時に作ったらダメという考えの団体があったが、そこに所属の作家さんが高齢になってから発表された茶碗の酷いこと。他の作品はよいものを創られるのに。そうはなりたくない。そんな個展を見てしまったことがきっかけでもある。まだ間に合う筈だ。

口づくりのはなし

ある方の見解である。
日本のやきものと、海外のガラスも含めた器の口づくりの違いのはなしである。特に液体を入れ、直接口をつける、ぐい呑み、湯呑、ワイングラスなどの器の口づくりだ。口とは、中の液体が口に入る境界線である。しかし、そこは線ではなく、数ミリの厚みがある。その数ミリにどれだけの神経を使うか、どれだけの思いを込められるかが作家の仕事であり、そのことに日本の陶芸家たちはかなりのウェイトを置いている。ぐい呑みや、抹茶茶碗はそこが命といってもよいぐらいである。

工業製品なら仕方がないが、海外の高額なグラスでも、日本の量産のやきものでも、そのほとんどがただの境
界線である。それはそれでよいのだが日本のやきものの中には、ただの境界線ではなく、また飲みやすいか飲みにくいかではなく、そこに作り手の意識が込められたものがあるという話である。
徳利の口のところでも話したが、上品かどうかだけではなく、時には下品に、時には艶めかしく、時には切れ味が欲しい気分のこともある。だらしない口でもよい時もある。著名な陶芸家へのインタビュ―で、「良い口づくりとは?」との質問?愚問?に対して、「飲みにくい口がよいんじゃ」と返されていた。意識のある陶芸家はそこに全てをかけているといっても過言ではない。

「品と格と色気」

作る仕事をはじめてから、父からよく言われた。
作るやきものに、「品と格と色気」のどれかが欠けてもだめだと。
「格」は若い時には厳しいが、意識を持っているかが重要である。「品」は生まれ、育ちが大きく作用するが、お付き合いの加減で磨くことも可能だと。「色気」に関してはわからんわと。遊び人になればよいのかではない。歌舞伎の世界でもよく言われることだが、技術を磨く以外に、仕事の向上のためどう生きてきたかが重要で、職種によって立場によってそれぞれ異なり、必要でない生き方もある。
私は当初からこのことを意識してきたせいか、そんな匂いのするやきものが好きである。歴史に残る陶芸家の作品や名品と言われるものの中でもすべてが私の嗅覚に合うものばかりではない。品が飛びぬけているもの、格が重苦しいもの、色気が出過ぎているもの様々である。それらを求めてきたコレクターの方々は、自分の生きざまに合致した何か、あるいは自分にない物を感じて手に入れてこられたんだろうと思う。

しかし、最近は新たなジャンルの作り手と買い手が出てきた。品と格と色気に加えて「お洒落」である。洒落っ気ではなく「オシャレ」である。日本のやきものの世界に近年に確立された世界だ。生活様式、食生活の違いから生まれたもので必然である。江戸時代にパスタ皿やカレー皿はなかったのだから当たり前である。逆に言えば今まで和陶で代用してきたものに、やっと日本由来のオリジナルが産まれたと言えるのかもしれない。
今後も新しいジャンルの器が国内から、また海外からも要求されることを期待したい。

日本の工芸の世界でガラパゴス化、絶滅保護の立場に追いやられる技術もあるかと思うが、私の好きな匂いのするやきものは今後も「枠」として保たれるだろう。
石黒宗麿さんの世界を超お洒落と思い、備前の徳利に斑唐津(まだらからつ)のぐい呑み片手に、織部の向付に鯛や鮪、古染にてっさもいいなぁ、伊賀の花入に野草が一輪、そんな空間で一杯やる幸せを世界中の人に布教していきたいものだ。

「やるときはやる」という話

やるときはやるタイプの逆は、真面目にコツコツではなく、ずっとやるだと思う。
やるときはやるタイプは時々120%で頑張る。ずっとやるタイプは常に80%以上を保っている。
真面目にコツコツは常に60%ぐらいなのだろうか?

若い時は皆毎日100%以上で頑張ってきたがそうは続かない。私は若い時は真面目にコツコツだった。それがやきものの世界に入ってから、何故かやるときはやるタイプになってしまった。何か月も土を触らない時もある。一か月ずっと轆轤の前で考えている時もある。しかし、手は動いてないが頭の中はフル回転している。

ある料理の巨匠にお伴して、何度かさらなる巨匠の料理を勉強しに行ったことがある。我々作り手は一般のお客様と違い、料理屋さんに行く際には味や盛り付けや設えの良し悪しを見に行くだけでなく、料理人の所作をみることも勉強である。
巨匠の教えは、「立ち姿をよく見とけよ」と。「あれが何十年も日本一であり続けているひとの姿である。何十年もずっと毎日80%のちからを維持されている」と。
巨匠が巨匠に鮨を握ったあと、さっとつけばから降りられ、入口の待合で新聞を読まれる。いつもである。
そこには私には見えない両者の火花のやりとりの緊張が確かにある。が、微塵も見せない闘いだ。
一秒も見逃すことなく追っているが、一瞬も無駄な動きがない。異様に仕事が速いが速さを感じさせない。
流れるような動き。付き人の動きが忙しなく見えてしまう。
そんな流れるような動きに憧れ、轆轤でも真似てはみたがとてもしんどい。長時間は続かない、息が詰まる。
やる時にしかやらないタイプではその領域には一生たどり着けないだろう。

「人生最期に棺桶の中にまで持って行きたいぐい呑みを作れるようになってね」

私が尊敬する陶芸家の一人で瀬戸の陶芸家がおられる青瓷や米色、織部の作品で有名な方である。轆轤の達人であり、切れ味鋭く、潔い仕事が大好きである。それでもって、やきもの好きの心をくすぐるエッセンスがさらっと振りかけてある。私の目指したい仕事の一つのかたちである。

その方の仕事に憧れ東京で個展をした際に、その方のコレクターである方がたまたま見に来てくださった。コレクションを見せていただきたいと厚かましくもお願いをしたが断られた。
その後も改めてお願いしたがまた断られた。三度目にはじめて個展が終わった次の日に来なさいと言っていただいた。なぜお許しいただいたのかわからないが、三度目の個展で憧れていた作家さんの作品で窯変と名の付く乳白色のやきものがある。何故窯変と名付けておられたのかわからなかったのだが、青瓷の窯を焼いているときに寝ぼけて温度を間違い焼いてしまったときに似たようなものができたことがあった。
透明感のある青い釉薬が真っ白の乳白色になり、その茶盌とぐい呑みを出品した。
そのコレクターの方がその作品を指さしグーという合図をされ、よく頑張ったねとも言っていただいた。
それが良かったからなのかわからないが朝9時から伺った。お昼ぐらいには終わるだろうと思って行ったが大間違いだった。立派なお宅にあげていただいたら、床の間には木箱が山積みにしてあった。
一点一点紐をほどき、その作品の思い出も交えながら箱書きの良し悪し、真田紐、作家による梱包の仕方の違いなどを話していただいた。あっという間に昼になり、奥様の手料理を尊敬するその作家の器に盛り付けて出していただいた。これを普段使いにされている生活。手が震えた。
午後からもその作家のやきものだけでなく、日本陶芸界の巨匠のほとんど一品ばかりを拝見させていただいた。夕方5時、まだまだ床の間には箱がある。
夕食も巨匠の器たちのフルコースである。漆もガラスもすごい作品でもてなしていただいた。
そしてその後も美術館所蔵クラスの作品が続き、終電を気にする時間になってきた。西船橋である。到底京都には帰れない。

最後、床の間の隅に置いてあるぐい呑みぐらいの箱を残して、陶芸の世界の移り変わりのお話と、私が今後どうあるべきか、やきものに向う姿勢を教授いただいた。
残る一箱のことを尋ねる雰囲気でもなく忘れておられるならいいかなとも思っていたら、最後に君に見せたいものがあると言って、その箱を開けられた。
土ものに化粧をした赤絵のぐい呑みだった。一目で師のさらに師の石黒宗麿作の赤絵とわかった。
「どう思う」と聞かれた。
百点以上日本の陶芸界の一級品を見た後のそれは、どう評価してよいのやら迷った。
高台の中にはS字の切れがあり、ぐい呑みのサイズで切れるというのはプロとして「えっ」と思った。
口辺もわざとなのか欠けていたり、がたがたである。化粧土もはがれ、赤絵も発掘品のように褪せている。
返答に迷っていると、再度「率直にどう思う」と聞かれ、「申し訳ないですが、言葉は適切ではないかもしれませんが、下手な仕事」と答えてしまった。しかし、「その通り」と。そして、このぐい呑みは、私が死んだら必ず棺桶でのなかで私の右手に持たせて欲しいと嫁と子供たちに伝えてあるんだ、と言われた。

世の中の陶芸家のほとんどは能力の100%、ときには偶然にも120%の仕事ができないかと日々仕事に向かっている。それは当たり前で若い時にはなおさらだと。しかし、歳を重ね老体になっても頑張っておられる元気な姿は構わないが、同じテンションの仕事を見るのは辛いと。私は経営者として若い時は死にもの狂いで働いた。そんなときには勇気付けてくれるやきものを好んだ。しかし今は会社も譲り、激動の人生を振り返り美味しいお酒を飲むときのぐい呑みとして、これに辿り着いたんだと。このぐい呑みには180の仕事がしてあると。100や時には偶然にも120の仕事ができないかと思った仕事ではなく、このぐい呑みは見た目には20の下手くそな仕事である。しかし100行って80降りてきて20の仕事だから180の仕事がしてあると。プロの陶芸家として降りてくる勇気と自信。この歳になると、こういうぐい呑みでないと酒が美味しくない。
君もいつか数十年後に良い歳になったら、こんなぐい呑みがつくれるような作家になってね。
若くして器用な人は多いけど、今作ったらダメだよ。それは本物じゃないから。我々には見透かされるよと。

その後、東京行の終電に乗りボーとしたまま駅に着き、宿もとっていなかったので新橋のサウナに泊まった。
次の日もボーとしたまま京都に帰った。衝撃の一日だった。その後もう一度お伺いしたことがあるが、後にお亡くなりになられたことを知った。きっとあのぐい呑みを持って逝かれたのだろう。私の人生の出会いの中で大きな出来事であった。いつかはご教授いただいたようになりたい。

「師の顔に泥を塗るな!」

大阪の一門展で言われた一言である。独立して数年目、まだ、20代中頃に一門展に出品するよう声を掛けていただいた。一門展は、一月に東京池袋、四月に大阪天満橋の百貨店の美術部で開催されていた。初めて大阪に出品した際にはまだ作品らしいものはでき上がっておらず、今考えるととんでもないやきものを出品していたと思う。自分ではそこそこと思っていたが、初めて百貨店の美術画廊に並べたとき、兄弟子たちの作品と比べると恥ずかしくて、すぐにでも片付けたい気持ちになった。その旨を兄弟子たちに伝えると「ようできてるがな。」と言われ、そのまま一週間並べることになった。

初日には皆が集まり宴会があったのだが、寡黙な兄弟子たちは多くを語らず、緊張したまま煙草をふかし、師が来られるのを待っていた。師の登場でその緊迫度合いはマックスとなり、全員の作品をご覧になると、一言もなく椅子に腰をかけられる。奥様の緊張を和らげるお言葉も会話は続かず、たった一言の返事で終わり。あとは、百貨店の美術部長さんの場を和ませようとするう軽い話題が、滑稽に思えるぐらいの張りつめた状態であった。昼食も黙って食べるだけで、私は一番年下で最後に配膳されるため、高級なうな重を水で冷ました肝吸いで流し込むように飲み込み、席を立ったことを覚えている。その会の当番で一人でいた時に会場に来られた常連のお客様に言われたのがこの一言「師の顔に泥を塗るな!」であり、早く片付けたらとさえ付け加えられた。私の言った通りではないか。

20代のメンタルにはきつかった。悔しいの前に恥ずかしい。やきもの学校を出て数年目となり、少しは自信のあった若造が鼻をへし折られた一回目の出来事であった。その後、同級生たちが自己表現と称して作品づくりをし、自由に発表しているのを横目に、徹底的に技術を磨くことに専念した。兄弟子たちの技術のレベルに早く近づき、兄弟子たちに認めてもらい、そして、あの緊張感を真に味わいたいと思った。
今、この思いを綴っていてふと気が付いた。あの時の兄弟子たちは同じような洗礼を受けるであろうから「ようできてるわ」と言ったのかなと。意地悪に考えてしまったかもしれない。

材木座海岸

私が、やきものを作ることになった、何かの、或いは誰かの洗礼を受けた場所かもしれない。
代々やきものを販売する茶碗屋の倅に生まれ、この店を継ぐんだなぐらいにしか思っておらず、将来のことなど何も考えずに、また何も言われないまま18歳まで生きてきた。大学にも皆が行くから程度で、どこへ行って何かをしたいわけでもなく、成績とはかけ離れた学校を受験し不合格。当たり前である。同級生の中には、しっかりと目標を持って、そのための学校を選び、そのための勉強をして合格した友人がいた。しかし多くの友人が浪人したので、またもや懲りずに何も考えることなく予備校に通ったものの、思う学校には不合格。
初めて親に申し訳なく思い、自分のふがいなさに気づき、いたたまれず京都駅から夜行電車に飛び乗り、大萱で乗り換え大船で降りたのが翌日の明け方。鎌倉・湘南を目指し、始発を待つことなく日の出が見たいと思い海までとにかく走り出した。

日の出にはとうに間に合わなかったものの、辿り着いたのが材木座海岸。その海岸の名は後に知ったのだが、
砂浜に座り、石を海に投げ、何時間ほどいただろうか。お洒落な犬を連れ散歩している人たちと自分とのギャップにうちひしがれ、肩が痛くなるほど悔しさを石にこめて投げていた。それから江の島、鎌倉大仏、江ノ電線路を歩いてみたりしながら、鶴岡八幡宮から横浜へ。赤い靴の女の子の前で氷川丸を横にまたもや海を見ながら毎日ぼんやりしていた。居酒屋で見ず知らずの漁師の方に励まされ、ご馳走になった。何日いただろうか、お金も底をつき、何も見いだせないまま京都に帰ると、父から勧められたのがやきものを作る専門校だった。粘土も轆轤も見たことはなく、何をする学校かも知らないまま願書を出して合格し、そして、今に至っている。

東京銀座での初個展の際にギャラリーの主にこの話をすると、もしかしてその海岸は?と言って車で連れて行ってくれた。まさにその場所であり、材木座海岸と知った。鎌倉幕府の荷揚げの浜である。日宋貿易である。宋の時代と言えば青磁、天目等々、日本は六古窯の時代。ギャラリー主から「砂浜を見てください。砂浜に石は落ちてないでしょう。あなたが海に向かって投げていたのは鎌倉時代の陶片でしょう。」と言われた。
確かに波に洗われ、角のまるくなった陶片だ。よく見ると天龍寺系の青磁や、影青の彫模様のある透明感のある青磁、鉄釉のかけら、叩き文のある甕の破片などばかり。親交の深かった小山富士夫さんと石黒宗麿さんもよく来て破片を拾っておられたようで、自分たちの器も割って海に投げておられたそうなという話も聞いた。後に誰かが拾って宋のものと間違えるかなとか思われていたのだろうか。私が拾った鉄釉のかけらもそうだったのかもしれない。たまたま偶然の重なった話かもしれないが、私としては1000年前の名もなき陶工の魂が乗り移ってくれたと思いたい。その後今までに何度か訪れた。辛い時、陶片に宿った魂を授かりに。

「あなた、やきもの好きですか?」

銀座での初個展の際にギャラリー主から尋ねられた一言である。
ところで、「猪飼さん、やきもの好きですか?」 唐突に言われ、何を意味するのか? 嫌いではないはずだが、なぜ続けているのか、なぜここで個展をしているのなどと考えているうちに、ハイ好きですと即答するタイミングを逃してしまった。「なら、好きになってください。とことん好きになってください。やきものすべてを好きになってください。そこからがスタートよ。」と。

即答しなくてよかった。ましてや大好きです、なんて言わなくてよかった。
私の本気でこの仕事に取り組むきっかけになった第二弾の強烈な言葉でした。一弾目は「師の顔に泥を塗るな!」である。
それから本気で勉強した。過去も現在も。日本も外国も。骨董もオブジェも。茶陶も産地も。すべて。マニアになってしまった。しかし、あの20代後半に聞かれた時も相当好きだったと思う。知識は少なかっただけで。

三つと五つ 人それぞれ こだわりがある

これはやきものを焼く際に板に引っ付かない様に、また薪窯などで高台際に景色を付けるときなどに、耐火度の高い土を高台際にまるめて付けて浮かす技法である。業界では「目を付ける」と言い、その数が三つなのか五つなのかの話である。

20代そこそこの時、登り窯の研修会があり、全国から著名な陶芸家たちが集まって窯を焚く裏場のお手伝いをする機会があった。窯詰め作業での話である。窯の中は狭いため、一点詰めるごとに窯から出入りはせず、作者が窯の中に入り、手伝いが窯の外に並べてある作品を指示通りに運び、目を付けて手渡すのである。
師からは最初三つと言われ付けて手渡したものの、数個目から自分んで付けるからよいと言われ、耐火度の高い粘土を塊で手渡した。次の方は最初三つずつ付けて手渡したところ、私は五つでと言われ変更した。またある方は茶碗のかたちを見せてそれは五つ、そちらは三つと指示があった。別なある方は目の大きさの指定までもされた。他には、一点目を置く場所を決めてそこから均等割りに三つか五つの指定という方。適当でいいという方も。それぞれの違いに合わせて右往左往している私を見かねてか、大中小を三種類に分け箱詰めされたお菓子のように整然と並んだものを作ってくださる方もおられた。二巡目、三巡目となると、作者のイメージ通りに手渡せるようになった。

しかしながら、それぞれの拘りと、作者の見た目の雰囲気や作品の雰囲気に整合性がなく、それぞれ作品に込める思いは違うんだなと学んだ。作品で自己を表現するということを一度も学ばずにこの世界に入ってきて、見た目ではなく内面にある思いを表現してもよいことを知ったり、それぞれでいいんだということも学んだ。師の目は豪快に三つで、丸めたものではなく、引きちぎった土を形を整えずにそのまま押し付けてあり、緋色のバランスが絶妙なアンバランスでそこにも個性を感じた。
お菓子箱を作ってくださった方は、ご本人はおおらかで土台もおおらかな轆轤をされる方だったが、装飾はとても緻密な作業をされる方でした。

注文の仕方も人それぞれ

日頃の仕事では器を作っているが、お料理屋さんからの注文もよくいただく。
見本がある場合はその通り作ればよいが、新しい器を注文される際にはミリ単位の指定があったり、細かな指示をされる方もいらっしゃる。それはそれで我々プロとしては当たり前のことだが、中には用途だけ指定され、色も形もお任せで、時には数までできただけと言われる方もおられる。
逆に凄いプレッシャーだが、これはこれでやりがいのある仕事でもある。

料理人も、骨董屋もやきものを作ることは素人 作ることにプロにならんかったら対等に話が出来ん。

とあるやきもの好きの料理人から言われた言葉である。
若いころはやきものを扱ういろんな職種の方からいろんなことを言われた。
こんな器に盛り付けできない。こんなお茶碗ではお茶が点てられない。もう少し古い物を勉強したら。
安物を百見ても何にも上達せんで。こんな器の足なら塗りのテーブル傷だらけになるがな。お金貯めてでも美味しいもん喰いに行かな、等々。同じことを当たり前によく耳にした。

その当時は理解できなかっただけでなく反発もあったが、年齢を重ねるにつれ理解できるようになってきた。それは技術が上達し、知識の蓄積がそう変化させたのであり、若い人に頭ごなしに言うのはどうかなと思っていたが、近ごろ私も同じことを言っていたりする。反省である。
年齢を重ね同じことを繰り返しているのだが、あの時本気で言ってくれていた方と、薄い知識で誰かの受売りで言っていた方との違いが見えてきた。

料理人としての器の知識、骨董屋さんとしての眼識、作り手としての身につけた技術が、お互い高い次元で認め合えてこそ対等に話ができ、さらに高みを目指せる。そんな経験談とよく似た話を同年代の料理人、骨董屋さん、茶人から聞くことがあった。また、役者や大工さんからも納得できる話を聞く機会があった。
巷でプロとはと聞く番組があるが、その経験の積み重ねが更なるプロ同士の会話になっていくのだろうと思った。それからは、若い方に当たり前に当たり前のことを言わないよう心掛けている。言うときはいつも本気である。

怖い顔して轆轤まわすな。そんな気持ちで作ったものに人が感動するか?

30代の頃だったか、衝撃を受けた陶芸家の話で、作陶の幅が増えた出来事である。
当時話題のオブジェ作家で、(オブジェ作家というのも死語かな?)大好きな作家さんだった。なぜ好きになったのかは後にわかるのだが、作品から醸し出される何かがたまらなく好きだった。若かりし頃は製陶所で轆轤師として働き、毎日何百と湯呑を作っていたとも聞いた。そんな方のもとへ連れていってくださったギャラリー主がおられた。感謝している。思った通りの豪快な方だったが、気配りが繊細で、こちらに気を遣わさないように少しおちょけてみたりと、その振る舞いがとてもお洒落で素敵だった。

折角だから何か作って行ったらと土を渡された。私は轆轤をする際、様々な道具などの配置も大体決めており、それが当たり前と思っていたのだが、道具も何もない。適当にその辺の物を使って、と言われたがどうしたらよいのやら。悩んでいると、土のこびりついた定規や石ころ、木の破片、つくだ煮の蓋などを示され、これをお使いと言われた。「京都の人はちゃんとした道具がないと作れんどすか」とからかわれた。「よっしゃ、やったるで」と気合を入れてこびりついた土を落としてセットし、土をもみ始めた。しかしそれは畑の土のように粘りがなく草の根っこも混じっており、菊練りなど到底できない。空気があちこちに入ったままというか、繋がらないというかどうにもならなかった。もまんでもよいよ。パンパンとたたくだけでよいと言われた。轆轤に乗せて水を付け、回しだしても全く土が伸びない。腰がないのでどんどん轆轤板の上に広がっていく。

その時いわれた。「最初に土を触った時に、この土ならどのようにつくれば形になるのか自分の引き出しをたくさん持っとかないとだめだよ。水なんかを使ったら絶対にかたちにならんよ。京都の人は頭が固い。一つの手しか持ってないと。日本中にはいろんな土があり技法がある。一瞬で見分けないと」と言ってかなり粘りの強い泥をわたされた。それをつなぎにして作れと。それから「そんな怖い顔して土をにらんで作っててもろくなもんできないで。誰が感動すると思う。だから京都の作家の作るもんは堅いね。あかんあかん。」といって缶ビールを2本渡された。一気に飲め。そして轆轤の横に大画面のテレビを持ってこられ大音量。ちょうどMTVでマイケルジャクソンが掛かっていた。「どうや、楽しくなってきたやろ」と。

私も意地になった。小皿すら作れないような土と格闘し、湯呑と茶碗をなんとか10個ずつぐらい作った。
「おー、この土で形にできたん君が初めてや。一月前に京都の大家さんが来られたけどあきらめはったわ。」
お互いお酒もかなり入り、今の気持ちを作品に込めろと言われ、助けてと頭に浮かび、HELPと模様をいれた。
そして次の日なんとか高台を削り仕上げた。削るのではなくむしり取る感じである。

数か月後釉薬をかけて焼きあがったものを送っていただいた。
そこには魂の叫びが籠もっているようにみえた。あの時にしかできなかった作品である。
貴重な経験だった。大切なことを伝えていただいた。それ以来、複数の手を持つこと、既成概念に捉われないことはいつも心掛けている。今もHELPばかりである。
※後に聞いた話だが、私にとっても絶対的なお二人である石黒宗麿先生と八木一夫さんを尊敬されていたそうだ。

定窯の白磁についた指紋

30代の頃だったか、東京のギャラリー主の方に、大阪の骨董屋さんで定窯白磁の一品ばかりの展覧会があるので見に行かないかとお誘いいただいた。以前に作品を作らせていただオブジェ作家の方と京都の泉涌寺で作陶されているオブジェも作られる大先輩と見に行った。確かに完品の大作ばかりである。メンバーを見てか、お店の方がガラスケースから出してくださり、一点一点手に取らせていただいた。

その時点でオブジェ作家のお二人も東京のギャラリー主もテンションが相当上がっている。土のこと、彫のこと、釉薬、窯、伏せやきかどうかなど、その場で討論がはじまった。私も骨董はそこそこは見ていたが内容がマニアック過ぎて参加できなかった。必死で話をされている三人の姿は、店の中で異様に感じるぐらいだった。かなりの大鉢を割れない様にクッションの上にひっくり返して見ているときに、引き締まった高台の外側の土に指紋の痕を見つけられた。その指紋は作業のどの工程でついたのかさらに議論が白熱していく。確かにうすくではあるが指先の指紋の痕がくっきりとついていた。1000年前の名もなき陶工の生きていた証でメッセージだと、悠久の歴史ロマンとなり話は終わった。帰り道も皆さんはそのことで感動されていた。
オブジェ作家の方は骨董には興味がないんだろうと思っていたが全く違った。相当なやきもの好きである。マニア、オタクレベルである。

私もあの激論に加わりたかった。もっと、やきものオタクにならないとだめだと思った。
単純かもしれないが、それから週に2~3回骨董屋街をうろつくようになった。

潔い仕事 料理とやきものの共通点

やきものの仕事を大きく分けると、加飾の仕事とそうでない仕事の二手に別れると思う。
私の仕事はどちらかというと後者である。瞬間芸のようでもある。一概には言えないが、切子と吹きガラス。油絵と書。フレンチと鮨。これらに擬えられるかもしれない。

加飾の仕事は、一点を仕上げるのにかなりの時間を要する。漆芸なんかもそうである。
どんどん完成度が高まっていく。だから数は作れない。それに比べて私の仕事は数はできるが、良い物は沢山作らないとできない。その確率を上げるために数をつくり、技術を磨き、さらにその確率を上げていく。
私の仕事は和食の中でも鮨の仕事に近い気もする。シンプルだけど、だから難しい。僅かな差しかないが、その僅かを乗り越えるのが大変である。鮨職人の方ともよく話す機会があるが、この世界では「潔い仕事」というのも大切なキーワードであると聞いたことがある。シンプルにするためにそぎ落としていく仕事は、潔くないと迷いが形に表れてきてしまうのだ。

スポーツ選手は大会前やシーズン前に調整をして、本番に最高の状態を持ってくるといわれる。プロならずっとキープできないものかと思っていたこともあったが、一流選手でもシーズン中にはスランプもあるだろう。
私の仕事も確率を上げるために日々努力をしているが、最高のパフォーマンスが出せるように精神の部分でも調整していかないと良い作品は生まれてこない。空いた時間にちょこっと仕事して最高の物ができるのなら楽なのだが…。年を取ると若い時のように自分のことだけ考えて仕事ができなくなってくる。用事が増えると調整も難しい。しかしそんな状況でも短期間で調整し、最高のパフォーマンスができる状態に持っていくことも修練しないといけない。潔くいきたいものである。

「誰かのために創る」ということ

私はぐい呑みを作る際に、いつも出会ってきた酒飲みの人たちのことを思いながら作っている。あの人ならこんなのを好むかな?とか、あの人に持ってもらえたら色っぽいなとか妄想しながら作るのはとても楽しい時間である。

最近子供たちへの出前授業でやきものを教えることがあり、テーマを「誰かのために創る」とした。
誰に、どんな思いで、何を作るのかを事前に決めて、思いを込めて作ってもらい、完成品をプレゼントされた誰かの感想もいただいて完結という授業である。ほとんどの子供たちはお母さんに感謝を込めて作ったが、中にはお父さん、お爺ちゃんに、友人に、頑張っている自分にという子供もいた。
心を込めて作ることはその子の作品であり、手作りの良さを感じてもらう良い機会でもあった。またプレゼントをして喜んでもらうことで作った自分も嬉しくなる。我々の仕事の根幹を感じてもらえる授業だった。
子供たちの真面目に真剣に誰かのことを思い作っている姿を見て、このことこそが日本工芸の普及への第一歩だと感じた。

この活動に共感いただき、京都髙島屋さんで「日本の伝統をつなぐ第一歩展」として、子供たちの作品と思いを展示していただいた。さらにパナソニックさんの協力を得てその記録を映像に残していただくこともできた。深く感謝したい。私は誰かと特定して作っているわけではないのだが、その先に必ず人がいることを忘れてはいけないと改めて思った。

誰よりも気が小さく、神経質でありたい

私はとても神経質で気が小さいところがあり、自分でも嫌だなと思うこともある。が、反対にとてもだらしないとこ、意外と大胆なとこ、おおざっぱなところ、意外と男らしいとこ、逆に女々しいとこもあったりする。皆さんはどうかわからないが、いやな自分への反動がそうさせているのか、自分にはない憧れでそう振る舞っているのか、本当の性格はどうなんだろうと思ってしまう。ただ、子供の頃に神経質と言われていたのは事実である。

ある時、祇園の飲み屋さんのお客様たちが団体で陶芸教室に来られたことがあった。派手なお姉さん方に混じり、怖い職業の方もおられた。作り方は様々で、ほとんど私が手助けしていいのができたと喜んでおられる方、日頃はうるさいぐらいにおしゃべりなお姉さんが一言もしゃべらなくなったり、一切私の手助けを受け付けない方など、こちらが本来の性格なのか、日頃とは違う姿を垣間見ることができた。
その中で、強面で大柄な怖い方が小さなぐい呑みを2時間かけて1個作られていた。太い指で小さな盃をそれは丁寧に丁寧に作っておられ、なかなか良い形で感心した。この方も実は神経質で気の小さい方なのかなと思いシンパシーを感じた。

料理人もやきもの屋も究極の神経質で気が小さくないと仕事する資格がないと言われた料理人の方がおられた。誰よりも気配りができ、細かなことに拘り、気の小さい自分への反動が逆を演じられるんだと。そう思うと、もの作りに向いてない性格の方も結構おられるなと思う。
私も根底にある性格が同じような方とは共感できるが、そうでない方とは馬が合わないような気がする。
二時間かけて無言で作られていた怖い方は実は優しく線の細い方なのかもしれない。しかし制作中「誰も声をかけるな」オーラがかなり出ていたのは事実である。

「心得」とは、何ぞや

まだ駆け出しのころ、グループ展に出品していた抹茶碗を何度も裏返し見ている近所の茶道具屋さんのご主人がおられた。褒めていただけるのかと思っていたら「お茶は習ってるの?」と聞かれ、「いえ、まだ」と答えたら「お茶の心得もないのにお茶碗作ったらあかんわ」と言われ、しばらく説教が続いた。
京都人特有の嫌味な言い方に少し腹も立ったが「そりゃそうだな」と納得することもあり、心得のある母親に相談した。今は作る方に専念したらと言われたものの、駅前にある新聞社主催の文化教室を見つけ、申し込んだ。最初は夕方のコースだったが、仕事で中々行けないことが多く、朝のコースに変更した。
夕方のコースは仕事帰りの若い方も多く楽しい雰囲気だったが、朝のコースは着物を召した高齢のご婦人ばかりで男は私一人。新聞社主催のためか先生も上層部の方で、年に二度ほどは宗匠もお越しになり、習っておられるご婦人たち全員がそれぞれに生徒さんを持つ先生方だった。とんでもないところに入ってしまったものだ。しかし、皆さん優しく丁寧に教えてくださった。しばらくして師に「お茶を習い始めました」と自慢げに報告したら「お茶って習うものか?」と返された。

ある時、初釜で宗匠がお越しになり、私の緊張と正座のしびれを察知されたのか「どうぞ足を崩してください」と言っていただいたが、そこは我慢。私が余程もじもじしていたのか二度三度「どうぞ」と言われたものの、京都人は三度目までは我慢。四度目で宗匠自らあぐらをかかれ、もう一度「どうぞ」と言われた。お言葉に甘えて足を崩すと、すーっと血が通いお稽古をじっくり見聞きすることができ、ほっとして宗匠を見ると「うん、うん」と笑顔で頷いてくださった。耐えている姿が見苦しく、美しくなかったことは反省している。
しかし、そのあとが地獄だった。稽古が終わると優しかったご婦人の皆様が豹変し、こっぴどく叱られた。だが、二時間も三時間も正座ができるほど私の足の血管に心得はない。それから暫くして仕事も忙しくなり、とうとう辞めてしまった。

その後、色んな茶人さんに会い、茶道の奥深さを感じる度にもう一度しっかりと習い直したいなぁと思うこともあるのだが、あの時のように嫌な思いをすることもあり躊躇してしまう。
近所で作陶している茶道具の名家の方々の中には、とってもフランクで気安く話せる方もいらっしゃるのだが、常に上から目線の方もおられる。

四回も「どうぞ」と言っていただいた宗匠の真意は何だったのかと事あるごとに考えてしまう。
加えて師が「習うものか」と言われたのは、果たしてどういう意味だったのか?
茶道に「道」とつく限り、お茶を通しての精神の修行でもあるのだろう。やきものにおいても陶道というのがあるのなら、私は昔も今もまだ修行をしている身に違いない。
あの宗匠の笑顔は「真の笑顔」だったと今でも信じている。
最近も若い陶芸家に向かって「お茶の心得がないのにお茶碗作ってるの」と蔑んでる人がいた。
いったい「心得とは何ぞや?」と改めて問いたい。

叶った夢、次の夢

数年前、アメリカに住む日本人女性の方からメールをいただいた。たまたまSNSで繋がったのである。私の器を日本で気に入って購入され、アメリカに移られた際にも大切に持って行かれたとのこと。そしてアメリカでの生活が辛い時、苦しい時に、その器に料理を盛ることで勇気と元気をもらえたとの内容でした。その後結婚されてお子さんにも恵まれ、幸せに暮らしておられるようで感謝してますとのことだった。
とても嬉しいメールで私自身も勇気づけられ涙が出た。

私も若いころに、美術館でのガラス越しではあるが身震いする作品に出会ったことがある。なんでもない組皿だったが轆轤の力と釉薬の渋さに感激し、こんな作品が作れるようになりたい、ひとりでもよいから自分の作った作品を見て勇気づけられ、明日も生きようと思っていただければ本望だとさえ思った。
その夢が叶った。辛くても仕事を続けてきてよかったと思った瞬間である。そして次の目標を探しはじめた。

数年後、偶然にもその方とお会いできた。ご家族で東京に旅行に来られた日が私の東京での個展の最終日と重なり、私のSNSを見てタイトなスケジュールのなかをお越しいただいたのだ。ご主人が是非行こうと言ってくださったようである。改めて感謝の気持ちを告げられたが、私こそ感謝である。頑張ってきた自分を褒めていただいたようにも思った。目頭が熱くなった。
次の目標が決まった。こんな方をもっと増やそうと思った。有名になりたいとか、高く売りたいとかではない。若い時にガラス越しに見た、あの何でもない鉢のような仕事をこれからもずっと探り続けることが大切で、真摯に土にむかっていないとそんな仕事を残すことはできない。

京都でやきものをするということ

私の生家は代々「五条坂」という京焼・清水焼の中心地で陶器商を営んでいた。
京焼の高級品だけではなく全国の産地から仕入れていたが、京都向きの器が中心で、瀬戸、多治見から量産品の土もの、有田や伊万里、波佐見からの磁器などある程度限られていた。個性の強い九谷焼や砥部焼、薩摩焼などは扱っていなかった。それに信楽や備前、萩、唐津のような土ものも仕入れてはいなかった。作家物や茶道具も少しはあったが専門ではなかった。

何の興味もなく作る世界に入ってきたときは、家の陶器がやきものの全てだった。学校に行き、初めて知るジャンルのやきものと出会った。信楽、備前、唐津などの土ものの味わい。陶芸作家という存在。オブジェというもの。中国や朝鮮のやきもの。芸術という世界や芸術大学の存在。ほんとうに何も知らなかった。

京都では小売り、問屋、窯元の住みわけという暗黙のルールがあり、その仕組みが京都のレベルを支えてきたことも知った。小売りの息子がやきものを作るなんてことはご法度で、友人の窯元のおやっさんから「小売屋のボンはわしらの陶器を沢山売ってくれることを考えてたらええねん。降りてこんでもええねん。馬鹿にしとんのか」とよくいわれたもんだった。私の父は先見の目があったのかどうか、これからの時代は他産地と同じように製造直売でお客様のニーズを即反映して作ることも大切と考え、私を作る道に導き、店の奥で工場長になって欲しかったようであった。

しかし、私は父の意に反して陶芸家という道を選んでしまった。小売りと窯元ならタッグを組めたのだが、小売りという商売人と陶芸家という世捨て人とは交わることはなく、父親が亡くなる間際まで大喧嘩の繰り返しだった。いつも父親の最後の決めセリフは「所詮売れてなんぼやろ。霞喰って生きていけんやろ」だった。
これに対して「その通り」と思う方と「そうじゃないんだよなぁ」という方と二手に分かれると思われるが、
「そうじゃないんだよなぁ」派は確かに続けていくには根性がいる。
最近の若手の陶芸家と話していると、「その通り」派が多数である。

私は喧嘩をしながらも、葛藤の中で「その通り」派をこっそりと頑張ってきた。
父が最期まで押し通してくれたことには、今思うにとても感謝している。父の葬儀のあとで父の友人から聞いた話だが、私が陶芸家を目指したときに父に言ったことがあると。「富の字がつく陶芸家さんは、富の下の田をいくつも売らはったらしい。覚悟せなあかんで」と。

京都でやきものをすることは、なかなか色々と大変である。
京焼といえども様々なジャンルがある。土産物、リビング系、割烹食器でも板前割烹や大箱の京料理店や江戸前風、中国・朝鮮の写し、仁清・乾山風、茶道具、煎茶、華道等々。
作家でも日展や工芸会の会派、オブジェでも芸大系でも各大学に特色があり、無所属という派、現代アート系、一匹狼派 等々様々あり過ぎる。皆がそれぞれで、作り手たちは府や市や町という枠ではまとまらない。
そのうえ、陶器店やギャラリー、骨董屋さんが絡まって来ると尚更にまとまらない。
しかし、それが京都の良さであると最近しみじみ思うようになってきた。
少し前だが、ある長老の先生は、「まとまる必要はない。それが京都なんだ」と仰っていた。

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