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材木座海岸

私が、やきものを作ることになった、何かの、或いは誰かの洗礼を受けた場所かもしれない。
代々やきものを販売する茶碗屋の倅に生まれ、この店を継ぐんだなぐらいにしか思っておらず、将来のことなど何も考えずに、また何も言われないまま18歳まで生きてきた。大学にも皆が行くから程度で、どこへ行って何かをしたいわけでもなく、成績とはかけ離れた学校を受験し不合格。当たり前である。同級生の中には、しっかりと目標を持って、そのための学校を選び、そのための勉強をして合格した友人がいた。しかし多くの友人が浪人したので、またもや懲りずに何も考えることなく予備校に通ったものの、思う学校には不合格。
初めて親に申し訳なく思い、自分のふがいなさに気づき、いたたまれず京都駅から夜行電車に飛び乗り、大萱で乗り換え大船で降りたのが翌日の明け方。鎌倉・湘南を目指し、始発を待つことなく日の出が見たいと思い海までとにかく走り出した。

日の出にはとうに間に合わなかったものの、辿り着いたのが材木座海岸。その海岸の名は後に知ったのだが、
砂浜に座り、石を海に投げ、何時間ほどいただろうか。お洒落な犬を連れ散歩している人たちと自分とのギャップにうちひしがれ、肩が痛くなるほど悔しさを石にこめて投げていた。それから江の島、鎌倉大仏、江ノ電線路を歩いてみたりしながら、鶴岡八幡宮から横浜へ。赤い靴の女の子の前で氷川丸を横にまたもや海を見ながら毎日ぼんやりしていた。居酒屋で見ず知らずの漁師の方に励まされ、ご馳走になった。何日いただろうか、お金も底をつき、何も見いだせないまま京都に帰ると、父から勧められたのがやきものを作る専門校だった。粘土も轆轤も見たことはなく、何をする学校かも知らないまま願書を出して合格し、そして、今に至っている。

東京銀座での初個展の際にギャラリーの主にこの話をすると、もしかしてその海岸は?と言って車で連れて行ってくれた。まさにその場所であり、材木座海岸と知った。鎌倉幕府の荷揚げの浜である。日宋貿易である。宋の時代と言えば青磁、天目等々、日本は六古窯の時代。ギャラリー主から「砂浜を見てください。砂浜に石は落ちてないでしょう。あなたが海に向かって投げていたのは鎌倉時代の陶片でしょう。」と言われた。
確かに波に洗われ、角のまるくなった陶片だ。よく見ると天龍寺系の青磁や、影青の彫模様のある透明感のある青磁、鉄釉のかけら、叩き文のある甕の破片などばかり。親交の深かった小山富士夫さんと石黒宗麿さんもよく来て破片を拾っておられたようで、自分たちの器も割って海に投げておられたそうなという話も聞いた。後に誰かが拾って宋のものと間違えるかなとか思われていたのだろうか。私が拾った鉄釉のかけらもそうだったのかもしれない。たまたま偶然の重なった話かもしれないが、私としては1000年前の名もなき陶工の魂が乗り移ってくれたと思いたい。その後今までに何度か訪れた。辛い時、陶片に宿った魂を授かりに。

材木座海岸
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